2022.12.22

『オニ文化コラム』Vol,92

 
山崎 敬子
コラムニスト
玉川大学芸術学部講師

 
埼玉県の武蔵一宮氷川神社には湧き水が流れる「神池」があり、見沼の水源の1つでもあります。そしてこの湧水への信仰がこの地に氷川神社が建てられた起源になったと伝わっています。今回はこの見沼一帯に伝わる鬼の話です。
 
氷川神社の東側一帯はかつて「足立ヶ原」と呼ばれ、女性の生き血を吸う鬼婆がいたという伝承が残っております。
 
この伝承の舞台となる大黒院(さいたま市堀内)のあたりはかつて深い森でした。その森に棲む鬼婆が往来の女を殺して血を吸い、肉を食べていました。この鬼婆を旅の僧・東光坊阿闍梨祐慶が退治し、祐慶の法力によって石になった鬼婆を葬った塚が黒塚と呼ばれるようになりました。
 
その後祐慶は、鬼婆に殺された人々を葬る為に、鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる金銅薬師如来像を本尊とした東光寺(さいたま市宮町)を開創しています(※東光寺はかつて堀内にあったとも伝わっています)。そのためこの伝説は、東光寺の創建にまつわる話として今日まで伝わっています。
 
鬼女(鬼婆)伝説というと現在では福島県の「安達ヶ原の鬼婆」が有名ですが、『諸国里人談』には「黒塚は武蔵国足立郡大宮駅の森の中にあり、又奥州安達郡にもあり。しかれども東光坊悪鬼退散の地は、武蔵国足立郡を本所と言へり。即ち東光坊の開基の東光寺を言うあり。紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散とありて、奥州のことは見えず」と記してあり、さいたま市の足立ヶ原における伝承がもともとの伝承であるとあります。
 
なお、東光寺のHPには、大治3年(1128)頃に、紀伊国(和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨が足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立したとあります。「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がつけられ、現在の東光寺の名の由来になったそうです。
 
ちなみに、この東光坊阿闍梨祐慶(宥慶阿闍梨)は、武蔵坊弁慶の師匠であったという伝承も。武蔵坊弁慶の幼名は鬼若(※『義経記』)。あら、こちらも鬼ですね。
 

山崎 敬子 / Yamazaki keiko

実践女子大学院文学研究科美術史学専攻修士課程卒。大学在学時から折口信夫の民俗芸能学を学び、全国の祭礼を見て歩く。有明教育芸術短期大学子ども教育学科非常勤講師(民俗学)や早稲田大学メディア文化研究所招聘研究員などを経て、現在は、玉川大学芸術学部パフォーミング・アーツ学科講師(民俗芸能論)や学習院さくらアカデミー講師ほか。また、民俗芸能を地域資産として活かすべく、(株)オマツリジャパンなどで地域活性に取り組んでいる。


著作例:
編集:『年中行事辞典』(三隅治雄・編/東京堂出版 2007年)、
共著:『メディアの将来像』(メディア文化研究所・編/一藝社2014年)
著書:『にっぽんオニ図鑑』(じゃこめてい出版 2019年)
脚本:朗読劇『イナダヒメ語り』(武蔵一宮氷川神社 2018年)
コラム:オニ文化コラム(社)鬼ごっこ協会 毎月更新)、山崎先生の民俗学(ミドルエッジ)、にほん風習風土記(陸上自衛隊)、氷川風土記(武蔵一宮氷川神社)